「続スピリチュアリズム入門」への感想19
前回の、第十二章は、「再生について」で説かれたのは、「部分再生」と「全体再生」の問題であった。もし、再生の大部分が部分再生とするなら、次の第十三章「男女愛・結婚・同性愛」は、まったく意味を失ってしまうだろう。何故なら、部分再生が主流とするなら、個人としての恋愛体験など、死んでから類魂に戻ると同時に意味を失ってしまうからである。
つまり、「再生について」では、
「われわれにとって何より肝心なことは、再生についての詳細を知ることではない。今こうして地上に生まれている以上、最も大切なことは――『地上に生まれた目的である魂成長のための努力、地上で為すべき努力をすること』である」
などと書かれていたが、実は、その詳細は、とっても大切な点である。この部分を無視して、つまり部分再生の詳細を無視して、改めて「男女愛・結婚・同性愛」などと言われても、それこそ、その考察こそが意味がない、と言わざる得ないだろう。言ってみれば、その最初の部分が、あいまいであるため、この章自体が、あいまいな分析になっている。さらに、この章で、一番情けないのは、男女愛というものが「進化」によって誕生したという、誰でもが知っている明確な事実への認識である。現在、この地球上にいる生命のすべてが、雌雄分離をして生殖を行っているわけではない。ある時期、進化の1つの方法として選んだものが、雌雄生殖という生殖の1つの方法だったのだ。その方法が素晴らしかったために、人間だけではない、たくさんの生物が雌雄生殖というものを行っている。
その根幹の部分を無視して、「地上人の愛」、「霊界での愛」などという訳の分からない話をしても、まったく説得力はない。部分再生の問題が未消化の上に、雌雄生殖=有性生殖への考察もあいまいだ。
「この地上は全存在が“陽陰”から成立しており、このバランス・調和の上で存在している。とは言っても、陽的存在であれ陰的存在であれ、完全な陽陰だけの要素から出来上がっているわけではない。相対的に陽的要素の多いものが陽性(男性)になり、相対的に陰的要素の多いものが陰性(女性)になるのである。その意味で、完全に男性的要素だけの男、女性的要素だけの女はいない。結果的に男性的要素が多い人間が男であり、女性的要素が多い人間が女、というだけのことである」
などと書いているが、それじゃ、どうして“陽陰”がない生物というものが存在するのか。この記述は、
「この地上は全存在が“陽陰”から成立しており」
の部分から、間違っていることになる。つまり、この部分も僕なりに解釈して言うなら、
「この地上は全存在が“陽陰”から成立しており」
というのは「真理」ではなく「善」である。人間や一部の動物など、限定した存在から見れば、
「この地上は全存在が“陽陰”から成立しており」
という言葉も、一見「真理」のように見えるかもしれない。だが、結局は「陽陰」というのが、進化の速度を速めるための、より良い選択であったに過ぎない。というのが分かるだろう。1つの元素、例えば水素原子を眺めても「陽陰」など関係ないからである。
例えば、今は、たまたま男女というのが存在するとしても、これが数世紀の歴史を経て、仮に将来、人間がクローンで増殖するようになったとしたら、その時代になっても、この「男女愛・結婚・同性愛」などの考察は意味を持つだろうか。
逆に、歴史を遡って、奴隷制で一般の人々には恋愛の自由も、一般的な権利さえも認められなかった時代を見ても、この「男女愛・結婚・同性愛」の章の記述は意味がないことが分かる。
つまり、この章の記述が、生命の歴史を見ても、もっと限定して人間の歴史と考えても、とても普遍的な記述ではなく、限定的な記述であることは一目瞭然だろう。
そんな視点で、改めて、この章を読むと、スピリチュアリズムが説く「魂の成長」や「霊主肉従」などといった言葉の虚しさに、改めて呆れてしまう。ここまでがスピリチュアリズムが説くところの「霊的真理のエッセンス」だそうだ。僕は、どうしたらいいのだろう。
つまり、「再生について」では、
「われわれにとって何より肝心なことは、再生についての詳細を知ることではない。今こうして地上に生まれている以上、最も大切なことは――『地上に生まれた目的である魂成長のための努力、地上で為すべき努力をすること』である」
などと書かれていたが、実は、その詳細は、とっても大切な点である。この部分を無視して、つまり部分再生の詳細を無視して、改めて「男女愛・結婚・同性愛」などと言われても、それこそ、その考察こそが意味がない、と言わざる得ないだろう。言ってみれば、その最初の部分が、あいまいであるため、この章自体が、あいまいな分析になっている。さらに、この章で、一番情けないのは、男女愛というものが「進化」によって誕生したという、誰でもが知っている明確な事実への認識である。現在、この地球上にいる生命のすべてが、雌雄分離をして生殖を行っているわけではない。ある時期、進化の1つの方法として選んだものが、雌雄生殖という生殖の1つの方法だったのだ。その方法が素晴らしかったために、人間だけではない、たくさんの生物が雌雄生殖というものを行っている。
その根幹の部分を無視して、「地上人の愛」、「霊界での愛」などという訳の分からない話をしても、まったく説得力はない。部分再生の問題が未消化の上に、雌雄生殖=有性生殖への考察もあいまいだ。
「この地上は全存在が“陽陰”から成立しており、このバランス・調和の上で存在している。とは言っても、陽的存在であれ陰的存在であれ、完全な陽陰だけの要素から出来上がっているわけではない。相対的に陽的要素の多いものが陽性(男性)になり、相対的に陰的要素の多いものが陰性(女性)になるのである。その意味で、完全に男性的要素だけの男、女性的要素だけの女はいない。結果的に男性的要素が多い人間が男であり、女性的要素が多い人間が女、というだけのことである」
などと書いているが、それじゃ、どうして“陽陰”がない生物というものが存在するのか。この記述は、
「この地上は全存在が“陽陰”から成立しており」
の部分から、間違っていることになる。つまり、この部分も僕なりに解釈して言うなら、
「この地上は全存在が“陽陰”から成立しており」
というのは「真理」ではなく「善」である。人間や一部の動物など、限定した存在から見れば、
「この地上は全存在が“陽陰”から成立しており」
という言葉も、一見「真理」のように見えるかもしれない。だが、結局は「陽陰」というのが、進化の速度を速めるための、より良い選択であったに過ぎない。というのが分かるだろう。1つの元素、例えば水素原子を眺めても「陽陰」など関係ないからである。
例えば、今は、たまたま男女というのが存在するとしても、これが数世紀の歴史を経て、仮に将来、人間がクローンで増殖するようになったとしたら、その時代になっても、この「男女愛・結婚・同性愛」などの考察は意味を持つだろうか。
逆に、歴史を遡って、奴隷制で一般の人々には恋愛の自由も、一般的な権利さえも認められなかった時代を見ても、この「男女愛・結婚・同性愛」の章の記述は意味がないことが分かる。
つまり、この章の記述が、生命の歴史を見ても、もっと限定して人間の歴史と考えても、とても普遍的な記述ではなく、限定的な記述であることは一目瞭然だろう。
そんな視点で、改めて、この章を読むと、スピリチュアリズムが説く「魂の成長」や「霊主肉従」などといった言葉の虚しさに、改めて呆れてしまう。ここまでがスピリチュアリズムが説くところの「霊的真理のエッセンス」だそうだ。僕は、どうしたらいいのだろう。
