「続スピリチュアリズム入門」への感想17
ここまで「続スピリチュアリズム入門」を読み進めて来た。次に取り上げる章は、
第十一章 スピリチュアリズムとキリスト教
である。ここではスピリチュアリズムとキリスト教の違いが書いてあり、冒頭には、
「スピリチュアリズムは欧米のキリスト教圏から現れた。そのスピリチュアリズムの説くところは、従来のキリスト教を根本から否定するものであるため、当初より近年に至るまで、キリスト教会からの激しい反対や多くの妨害・迫害に遭遇してきた」
ともあるが、僕には、スピリチュアリズムがキリスト教と根本から異なるとは思えない。それどころか、スピリチュアリズムの一部は、キリスト教の亜流のような気がして仕方がない。その辺りを考えてみよう。
まず、僕には、スピリチュアリズムについての大きな結論が1つある。それは、
◎唯一絶対神を口にするスピリチュアリズムに、キリスト教を批判する権利はない
ということである。これについては、以前にも述べた。唯一絶対神というのは、百害あって一利なしの思想だ。これについては、繰り返さないので、以前の考察を見てほしい。
そして、僕は、この記述にも、少し呆れてしまった。それは、
「その(キリスト教の)偽りの教義の中で最も有害なものは“贖罪思想”」
という記述だ。
この「贖罪思想」を本文では、
「神の唯一の子イエスが身代りの血を流し、このイエスを信じた者だけが救われる」という教え
とあるが、「贖罪」とは辞書を引くと、
「善行を積んだり金品を出したりするなどの実際の行動によって、自分の犯した罪や過失を償うこと」
とある。この場合、問題なのは、イエスの行動ではなく、実は、人類に罪があるという考え方である。人類は、これまで原生動物から長い歳月をかけて、人間へと進化を重ねてきた。大罪を犯して、楽園を追い出された存在ではない。当たり前に生まれ、当たり前に生き、当たり前に死んでいく人間に、どこに罪があると言うのだろう。
そして、それと同じ思想が、スピリチュアリズムの中にもある。それが「利他主義」である。人というのは、動物にしろ、植物にしろ、他の生命を奪うことなしには、生きていくことさえできない。「利他主義」など本来、成り立たないものである。そこで、「利他主義」で生きられない人間を、スピリチュアリズムは罪と言うのだろうか。ならば、それは、キリスト教と同じ「贖罪思想」ではないのか。
キリスト教の影響は、他にもある。例えば、本文の記述に、
「イエスは出生前は霊界において高級天使として存在していた。それが地上救済という使命を担って、人間の肉体をまとい地上に誕生した。そしてその時から始まった使命は今日までずっと続けられている。現在、スピリチュアリズムと呼ばれる、地球浄化・人類救済の大事業の“総指揮”を取っているのはイエスなのである」
とあるが、2000年を経ても、なおも、まっとうできない使命とは何だろう。イエスは、ごく普通の人間ではないのか。
「これまで、スピリチュアリズムと出会いキリスト教の間違いに気づき、キリスト教から転向した多くの牧師達がいる。こうした人達の手記や、改宗に至るまでの苦悩に満ちた内面葛藤の記録を読むことは勇気を与えてくれるだろう」
という記述も悲しい限りだ。牧師達は、キリスト教の間違いに気づいたと同時に、今度はスピリチュアリズムの説く唯一絶対神に絶対服従を強制されているのだろうか。僕は牧師達に言いたい。「あなたは苦しむ必要などない」と。
敢えて言うなら、スピリチュアリズムも、キリスト教も、真理への試行錯誤=善であることに、変わりはないのだ。違いは、キリスト教は2000年前の思想であり、スピリチュアリズムは、せいぜい200年ほどの歴史しか持たない思想だと言うことにすぎない。善が試行錯誤であることを考えれば、新たな思想=善の方が、多少、修正されていて当たり前である。スピリチュアリズムですら、真理ではないのだから、別に改宗した牧師達は、思い悩む必要など、まったくない。仮に、スピリチュアリズムが牧師達を思い悩ませているとするなら、それもまた、一種の「贖罪意識」の形成ではないのか。
霊界も現世も、同じ時間軸を生きている。同じ時間軸を生きているからこそ、霊界の存在も、この現世で修業を行う。そして、同じ時間軸を生きているとすれば、彼らは唯一絶対神ではなく、僕らと同じ真理の探求者なのである。僕には、そうとしか思えない。
第十一章 スピリチュアリズムとキリスト教
である。ここではスピリチュアリズムとキリスト教の違いが書いてあり、冒頭には、
「スピリチュアリズムは欧米のキリスト教圏から現れた。そのスピリチュアリズムの説くところは、従来のキリスト教を根本から否定するものであるため、当初より近年に至るまで、キリスト教会からの激しい反対や多くの妨害・迫害に遭遇してきた」
ともあるが、僕には、スピリチュアリズムがキリスト教と根本から異なるとは思えない。それどころか、スピリチュアリズムの一部は、キリスト教の亜流のような気がして仕方がない。その辺りを考えてみよう。
まず、僕には、スピリチュアリズムについての大きな結論が1つある。それは、
◎唯一絶対神を口にするスピリチュアリズムに、キリスト教を批判する権利はない
ということである。これについては、以前にも述べた。唯一絶対神というのは、百害あって一利なしの思想だ。これについては、繰り返さないので、以前の考察を見てほしい。
そして、僕は、この記述にも、少し呆れてしまった。それは、
「その(キリスト教の)偽りの教義の中で最も有害なものは“贖罪思想”」
という記述だ。
この「贖罪思想」を本文では、
「神の唯一の子イエスが身代りの血を流し、このイエスを信じた者だけが救われる」という教え
とあるが、「贖罪」とは辞書を引くと、
「善行を積んだり金品を出したりするなどの実際の行動によって、自分の犯した罪や過失を償うこと」
とある。この場合、問題なのは、イエスの行動ではなく、実は、人類に罪があるという考え方である。人類は、これまで原生動物から長い歳月をかけて、人間へと進化を重ねてきた。大罪を犯して、楽園を追い出された存在ではない。当たり前に生まれ、当たり前に生き、当たり前に死んでいく人間に、どこに罪があると言うのだろう。
そして、それと同じ思想が、スピリチュアリズムの中にもある。それが「利他主義」である。人というのは、動物にしろ、植物にしろ、他の生命を奪うことなしには、生きていくことさえできない。「利他主義」など本来、成り立たないものである。そこで、「利他主義」で生きられない人間を、スピリチュアリズムは罪と言うのだろうか。ならば、それは、キリスト教と同じ「贖罪思想」ではないのか。
キリスト教の影響は、他にもある。例えば、本文の記述に、
「イエスは出生前は霊界において高級天使として存在していた。それが地上救済という使命を担って、人間の肉体をまとい地上に誕生した。そしてその時から始まった使命は今日までずっと続けられている。現在、スピリチュアリズムと呼ばれる、地球浄化・人類救済の大事業の“総指揮”を取っているのはイエスなのである」
とあるが、2000年を経ても、なおも、まっとうできない使命とは何だろう。イエスは、ごく普通の人間ではないのか。
「これまで、スピリチュアリズムと出会いキリスト教の間違いに気づき、キリスト教から転向した多くの牧師達がいる。こうした人達の手記や、改宗に至るまでの苦悩に満ちた内面葛藤の記録を読むことは勇気を与えてくれるだろう」
という記述も悲しい限りだ。牧師達は、キリスト教の間違いに気づいたと同時に、今度はスピリチュアリズムの説く唯一絶対神に絶対服従を強制されているのだろうか。僕は牧師達に言いたい。「あなたは苦しむ必要などない」と。
敢えて言うなら、スピリチュアリズムも、キリスト教も、真理への試行錯誤=善であることに、変わりはないのだ。違いは、キリスト教は2000年前の思想であり、スピリチュアリズムは、せいぜい200年ほどの歴史しか持たない思想だと言うことにすぎない。善が試行錯誤であることを考えれば、新たな思想=善の方が、多少、修正されていて当たり前である。スピリチュアリズムですら、真理ではないのだから、別に改宗した牧師達は、思い悩む必要など、まったくない。仮に、スピリチュアリズムが牧師達を思い悩ませているとするなら、それもまた、一種の「贖罪意識」の形成ではないのか。
霊界も現世も、同じ時間軸を生きている。同じ時間軸を生きているからこそ、霊界の存在も、この現世で修業を行う。そして、同じ時間軸を生きているとすれば、彼らは唯一絶対神ではなく、僕らと同じ真理の探求者なのである。僕には、そうとしか思えない。
