「続スピリチュアリズム入門」への感想15
今回、読み進めているのは「続スピリチュアリズム入門」の「第九章、スピリチュアリズムと地上の宗教」という箇所である。
ここでは、最初に、
「現在地上に存在する全ての宗教は、将来必ずスピリチュアリズムに吸収されていく」
として3つの理由を述べている。1つ目は、
「スピリチュアリズムは高級霊界の計画によって始まった、大規模な“人類救済のプロジェクト”である」
という点。2つ目は、
「そこで説かれる真理の質(次元)である」
という点。3つ目は、
「普及の方法」
だそうだ。僕が、ここで賛成したいのは、3つ目だけである。ここには、「地上の宗教が教団の拡大を計るに際しては、激しい伝道や強引な宣伝が為されるのが常である」のに対して、スピリチュアリズムは「真理を受け入れられる時期に至ると、ごく自然な形で真理と出会うように道が展開してくる」と書かれている。仮に、それが事実とすれば、素晴らしいことであろう。
だが、一方で、この文章の主催者は、テレビで有名な江原啓之氏などには否定的である。僕には、
「真理を受け入れられる時期に至ると、ごく自然な形で真理と出会うように道が展開してくる」=「それが、スピリチュアリズムの教義と同じものである」
とは、どうしても思えない。それどころか、自然な形で人々が得ると言う「真理」はバラバラであるとしか思えないのだ。
そして、その原因は何かと言えば、答えは簡単である。僕は、宇宙意志というものが、これまでの宇宙創世から現代に至るまで、幾多の「試行錯誤」を繰り返して来た、と書いてきた。「試行錯誤」を行うと言う事は、宇宙意志=霊は、全知全能ではない、ということを意味している。つまり、宇宙意志=霊は、「真理」を完全に知っている訳ではない。宇宙意志=霊も、「真理」を探究する存在である。それを、もっと別の言い方をするなら、宇宙意志=霊も、善である、ということなのだ。
誤解のないように、この場合の「善」を説明するなら、善とは「真理=真」を追究するための活動という意味である。
約2000年前にイエス・キリストが説いたキリスト教も、真理ではなく善である。釈迦の仏教だって同じだ。そして、僕に言わせれば、「スピリチュアリズムは高級霊界の計画によって始まった、大規模な“人類救済のプロジェクト”である」と説く、このスピリチュアリズムも、善と言うことでは、キリスト教、仏教と何ら変わりはない。だが、キリスト教、仏教は、それが説かれてから約2000年もの間、善としての地位を確保し続けている。果たしてスピリチュアリズムに、それほどの価値があるかどうかは、僕には分からない。
そして、ここが重要な点だが、宗教と言うのは、すべて善であると考えるなら、それが正しいか否かは、常に時間の経過によって見直されなければ、意味がない。宗教が説く事実と、科学的に証明された事実が異なっているとしよう。ならば、その宗教は、当然、見直されるべきである。これは、宇宙意志=霊というものが、時間と言うものを超越した存在はない、ということとも、大きく関係している。キリスト教や仏教が、本当に、その時代の高級霊からの啓示によって、誕生した教えだとしても、それは真理ではない。何故なら、高級霊そのものも全知全能ではなく、我々と共に、時間軸の上に存在するものだからである。だからこそ、それは常に見直されてしかるべきである。その意味では、スピリチュアリズムも、仮に、それが人間の頭の中ではなく、本当に高級霊から導かれたものとしても、それは「真理ではない」と言うべきなのだ。
ただ、ここで僕には「スピリチュアリズム」とは別に、もう1つの研究対象というものを考えないわけにはいかない。それは、こうした宗教=善というものの持つ力である。宗教には、それを信じるに足る、超人的な現象というものが、あるのだろうか。キリスト教には奇跡の伝承がある。仏教の中にも、善を超えた力の存在を感じることがある。神社などにはご利益といったものが伝わっているが、それらは、すべて作り話なのだろうか。
それを以前、僕は「運の研究」と題して、少し研究を行って来たが、大して成果のないままに終わってしまった。ここで、今一度、この「続スピリチュアリズム研究」とは別途に、この「運の研究」というものを復活させたいと思う。
いずれにしろ、「善である」という面では、他の宗教とスピリチュアリズムには、何の変わりもない。違うのは、キリスト教や仏教が2000年も前に説かれたものであるのに対し、スピリチュアリズムの歴史は新しいということだ。新しいだけに、キリスト教や仏教に比べれば、不合理な部分、明らかに科学的真理とは異なる部分は少ないのかもしれない。だが、果たして、スピリチュアリズムという言葉が、この後、2000年後にも生き残っているかどうかは、疑問である。特に、
「スピリチュアリズムは高級霊界の計画によって始まった、大規模な“人類救済のプロジェクト”である」
などの部分は、僕には到底「真理」であるとは思えない。
ここでは、最初に、
「現在地上に存在する全ての宗教は、将来必ずスピリチュアリズムに吸収されていく」
として3つの理由を述べている。1つ目は、
「スピリチュアリズムは高級霊界の計画によって始まった、大規模な“人類救済のプロジェクト”である」
という点。2つ目は、
「そこで説かれる真理の質(次元)である」
という点。3つ目は、
「普及の方法」
だそうだ。僕が、ここで賛成したいのは、3つ目だけである。ここには、「地上の宗教が教団の拡大を計るに際しては、激しい伝道や強引な宣伝が為されるのが常である」のに対して、スピリチュアリズムは「真理を受け入れられる時期に至ると、ごく自然な形で真理と出会うように道が展開してくる」と書かれている。仮に、それが事実とすれば、素晴らしいことであろう。
だが、一方で、この文章の主催者は、テレビで有名な江原啓之氏などには否定的である。僕には、
「真理を受け入れられる時期に至ると、ごく自然な形で真理と出会うように道が展開してくる」=「それが、スピリチュアリズムの教義と同じものである」
とは、どうしても思えない。それどころか、自然な形で人々が得ると言う「真理」はバラバラであるとしか思えないのだ。
そして、その原因は何かと言えば、答えは簡単である。僕は、宇宙意志というものが、これまでの宇宙創世から現代に至るまで、幾多の「試行錯誤」を繰り返して来た、と書いてきた。「試行錯誤」を行うと言う事は、宇宙意志=霊は、全知全能ではない、ということを意味している。つまり、宇宙意志=霊は、「真理」を完全に知っている訳ではない。宇宙意志=霊も、「真理」を探究する存在である。それを、もっと別の言い方をするなら、宇宙意志=霊も、善である、ということなのだ。
誤解のないように、この場合の「善」を説明するなら、善とは「真理=真」を追究するための活動という意味である。
約2000年前にイエス・キリストが説いたキリスト教も、真理ではなく善である。釈迦の仏教だって同じだ。そして、僕に言わせれば、「スピリチュアリズムは高級霊界の計画によって始まった、大規模な“人類救済のプロジェクト”である」と説く、このスピリチュアリズムも、善と言うことでは、キリスト教、仏教と何ら変わりはない。だが、キリスト教、仏教は、それが説かれてから約2000年もの間、善としての地位を確保し続けている。果たしてスピリチュアリズムに、それほどの価値があるかどうかは、僕には分からない。
そして、ここが重要な点だが、宗教と言うのは、すべて善であると考えるなら、それが正しいか否かは、常に時間の経過によって見直されなければ、意味がない。宗教が説く事実と、科学的に証明された事実が異なっているとしよう。ならば、その宗教は、当然、見直されるべきである。これは、宇宙意志=霊というものが、時間と言うものを超越した存在はない、ということとも、大きく関係している。キリスト教や仏教が、本当に、その時代の高級霊からの啓示によって、誕生した教えだとしても、それは真理ではない。何故なら、高級霊そのものも全知全能ではなく、我々と共に、時間軸の上に存在するものだからである。だからこそ、それは常に見直されてしかるべきである。その意味では、スピリチュアリズムも、仮に、それが人間の頭の中ではなく、本当に高級霊から導かれたものとしても、それは「真理ではない」と言うべきなのだ。
ただ、ここで僕には「スピリチュアリズム」とは別に、もう1つの研究対象というものを考えないわけにはいかない。それは、こうした宗教=善というものの持つ力である。宗教には、それを信じるに足る、超人的な現象というものが、あるのだろうか。キリスト教には奇跡の伝承がある。仏教の中にも、善を超えた力の存在を感じることがある。神社などにはご利益といったものが伝わっているが、それらは、すべて作り話なのだろうか。
それを以前、僕は「運の研究」と題して、少し研究を行って来たが、大して成果のないままに終わってしまった。ここで、今一度、この「続スピリチュアリズム研究」とは別途に、この「運の研究」というものを復活させたいと思う。
いずれにしろ、「善である」という面では、他の宗教とスピリチュアリズムには、何の変わりもない。違うのは、キリスト教や仏教が2000年も前に説かれたものであるのに対し、スピリチュアリズムの歴史は新しいということだ。新しいだけに、キリスト教や仏教に比べれば、不合理な部分、明らかに科学的真理とは異なる部分は少ないのかもしれない。だが、果たして、スピリチュアリズムという言葉が、この後、2000年後にも生き残っているかどうかは、疑問である。特に、
「スピリチュアリズムは高級霊界の計画によって始まった、大規模な“人類救済のプロジェクト”である」
などの部分は、僕には到底「真理」であるとは思えない。
