「続スピリチュアリズム入門」への感想13
前回、僕は、本文の、
「神は宇宙を“法則”によって支配している。そのため霊界・宇宙には、数限りない法則が存在する。物理法則、運動法則、天体の運行の法則、自然法則、肉体に係わる法則、霊と肉体の関係の法則など、無数の法則の支配のもとで被造世界は存在している」
という部分から、そこには「善悪」に係わる法則など1つもない、と説いた。それについて、僕は間違っているとは思っていない。つまり、神の「法則」には、「善悪」はない。だが、その法則に従って、この宇宙を進化へと導いている「意志」には、「試行錯誤」という「善」が存在する。これは、言い換えれば、神と言うものが「法則」を作ったからこそ、そこに、より良い方向へと導く「意志」=「試行錯誤」というものが存在すると言える。
ここで1つ、明確にしておきたいことがある。それは、当たり前のことと言えば、当たり前のことだが、「神」と「意志」とは異なる、と言うことである。
そして、この「神」とは異なる「意志」と言うものが、「試行錯誤」を重ねながら、進化の道を歩んでいるのが、この宇宙だ。世の中には、死ねば無になってしまう、人間とは、生命とは、そんな存在である、と考える人も多い。だが、仮に、ここでは個人の「意志」は死によって存在しなくなると考えたとしても、この宇宙には、個人を超えた意志の「継続性」=「時間」と、もう1つ、個人を超えた神の「法則」=「秩序」が存在することは否定できないだろう。ここで、この瞬間、僕の命がなくなったとしても、この宇宙の「時間」の流れは止まることはないし、この宇宙の「秩序」が崩壊することはない。と考えると、この大きな「意志」と、個々の人間の「意志」との関連性については、あいまいかもしれないが、「継続する意志」という側面は、否定できないのではないだろうか。
さらに、この「継続する意志」が「試行錯誤」を重ねながら、進化の道を歩んでいる理由を考えてみると、そこに出てくるのは「究極の進化」という概念である。この「究極の進化」とは何かと考えると、宇宙の、時空の根本理解、つまり、「法則」の根本理解というものに至る。この「意志」が進化を重ね、時空の根本理解を成し遂げた状態、つまり、「意志」が「究極の進化」を成し遂げた状態とは何だろう。そう、それこそが言い換えれば「神」なのである。
僕らの進化の目的は「神になること」。宗教の中にも、このような教義を持つ宗教は珍しくないだろうが、やはり、これが進化の究極の目的であるとしか、僕には考えられない。となると、これも前回、書いた、
霊と言うものは、地上生活を通じてしか成長できない
という言葉にも意味が出てくる。この生命に現れる「意志」と言うものが、1回1回、バラバラだとするなら、それは成長とは言えない。「意志」と言うものが地上生活を通じて成長を重ねていくとするなら、個々の意志もやはり、継続する必要がある。
僕は、地上の生命が生き死にを繰り返して進化を重ねているのと同じように、意志というものも、生き死にを繰り返して、成長を重ねているのではないか、と考える。
これまで、僕が「意志」について述べて来たことを、ここで整理してみよう。
1、「意志」というものは、宇宙創生の時代から「現世関与」を、その目的としている。
2、その「現世関与」の具体的な方法、手法とは「試行錯誤」である。
3、「試行錯誤」を行っている、ということは、「意志」も「法則=神」には、逆らえない存在であり、例えば「意志」も「時間」に逆らうことはできない。
4、進化を重ねる「意志」の目的=究極の進化の目的は、神になることである。
5、「意志」は、地上生活を通じてしか成長(=進化)できない。
といったところだろうか。
今一度、今回の、
第七章 因果律・運命・自由意志
について言及すると、「因果律」とは、まさに1つの善の形だろう。真に向かう試行錯誤が善だとするなら、魂の成長などという、あいまいな概念を持ち出さなくても、この現世での生活は、何らかの試行錯誤の実践である。因果律=原因と結果の法則は、あって当然と言えるだろう。また、霊に「時間」に逆らうことが不可能であるなら、ここで言う「運命」の大枠というのも、計画書程度の存在であることが分かるだろう。そして、人間の持つ「自由意志」とは、まさに霊が持っている「自由意志」と同じものである。霊が持っている「自由意志」と、人間の持っている「自由意志」が異なるのは、まだまだ人間の脳が進化の途中だからとも考えられるのではないか。
この辺りの考察は、さらに章を進めながら、順次、考察を深めたいと思う。
「神は宇宙を“法則”によって支配している。そのため霊界・宇宙には、数限りない法則が存在する。物理法則、運動法則、天体の運行の法則、自然法則、肉体に係わる法則、霊と肉体の関係の法則など、無数の法則の支配のもとで被造世界は存在している」
という部分から、そこには「善悪」に係わる法則など1つもない、と説いた。それについて、僕は間違っているとは思っていない。つまり、神の「法則」には、「善悪」はない。だが、その法則に従って、この宇宙を進化へと導いている「意志」には、「試行錯誤」という「善」が存在する。これは、言い換えれば、神と言うものが「法則」を作ったからこそ、そこに、より良い方向へと導く「意志」=「試行錯誤」というものが存在すると言える。
ここで1つ、明確にしておきたいことがある。それは、当たり前のことと言えば、当たり前のことだが、「神」と「意志」とは異なる、と言うことである。
そして、この「神」とは異なる「意志」と言うものが、「試行錯誤」を重ねながら、進化の道を歩んでいるのが、この宇宙だ。世の中には、死ねば無になってしまう、人間とは、生命とは、そんな存在である、と考える人も多い。だが、仮に、ここでは個人の「意志」は死によって存在しなくなると考えたとしても、この宇宙には、個人を超えた意志の「継続性」=「時間」と、もう1つ、個人を超えた神の「法則」=「秩序」が存在することは否定できないだろう。ここで、この瞬間、僕の命がなくなったとしても、この宇宙の「時間」の流れは止まることはないし、この宇宙の「秩序」が崩壊することはない。と考えると、この大きな「意志」と、個々の人間の「意志」との関連性については、あいまいかもしれないが、「継続する意志」という側面は、否定できないのではないだろうか。
さらに、この「継続する意志」が「試行錯誤」を重ねながら、進化の道を歩んでいる理由を考えてみると、そこに出てくるのは「究極の進化」という概念である。この「究極の進化」とは何かと考えると、宇宙の、時空の根本理解、つまり、「法則」の根本理解というものに至る。この「意志」が進化を重ね、時空の根本理解を成し遂げた状態、つまり、「意志」が「究極の進化」を成し遂げた状態とは何だろう。そう、それこそが言い換えれば「神」なのである。
僕らの進化の目的は「神になること」。宗教の中にも、このような教義を持つ宗教は珍しくないだろうが、やはり、これが進化の究極の目的であるとしか、僕には考えられない。となると、これも前回、書いた、
霊と言うものは、地上生活を通じてしか成長できない
という言葉にも意味が出てくる。この生命に現れる「意志」と言うものが、1回1回、バラバラだとするなら、それは成長とは言えない。「意志」と言うものが地上生活を通じて成長を重ねていくとするなら、個々の意志もやはり、継続する必要がある。
僕は、地上の生命が生き死にを繰り返して進化を重ねているのと同じように、意志というものも、生き死にを繰り返して、成長を重ねているのではないか、と考える。
これまで、僕が「意志」について述べて来たことを、ここで整理してみよう。
1、「意志」というものは、宇宙創生の時代から「現世関与」を、その目的としている。
2、その「現世関与」の具体的な方法、手法とは「試行錯誤」である。
3、「試行錯誤」を行っている、ということは、「意志」も「法則=神」には、逆らえない存在であり、例えば「意志」も「時間」に逆らうことはできない。
4、進化を重ねる「意志」の目的=究極の進化の目的は、神になることである。
5、「意志」は、地上生活を通じてしか成長(=進化)できない。
といったところだろうか。
今一度、今回の、
第七章 因果律・運命・自由意志
について言及すると、「因果律」とは、まさに1つの善の形だろう。真に向かう試行錯誤が善だとするなら、魂の成長などという、あいまいな概念を持ち出さなくても、この現世での生活は、何らかの試行錯誤の実践である。因果律=原因と結果の法則は、あって当然と言えるだろう。また、霊に「時間」に逆らうことが不可能であるなら、ここで言う「運命」の大枠というのも、計画書程度の存在であることが分かるだろう。そして、人間の持つ「自由意志」とは、まさに霊が持っている「自由意志」と同じものである。霊が持っている「自由意志」と、人間の持っている「自由意志」が異なるのは、まだまだ人間の脳が進化の途中だからとも考えられるのではないか。
この辺りの考察は、さらに章を進めながら、順次、考察を深めたいと思う。
