「続スピリチュアリズム入門」への感想11
聖書に書いていることを一言一句、事実として、それに反することを認めないという人々がいる。進化論を否定し、恐竜の存在を認めない人々を、僕は、かわいそうにも思う。前回、僕は、
「進化という概念が存在しなかった、イエス・キリスト時代や、釈迦の時代なら、そうした思想を宗教指導者が説いたとしても、それは仕方がないことだ。ところが、科学によって地球の歴史、生命の歴史が明らかになり、神話が否定されたにもかかわらず、いつまでも、そうした主張を説き続けることを、僕は『善』ではなく『偽善』と呼ぶことにしている」
と書いたが、宗教とは「真理」ではなく、常に「善」でしかない。宗教の教えは、その時代にいくら有益性があったにしろ、「善」=「時代の産物」と見なすべきである。
「続スピリチュアリズム入門」の「第六章 宇宙人」も、同じだ。スピリチュアリズムの中には、キリスト教の教えを頑なに守る人々を嘆くような表現があるが、それは「霊界通信」についても言える。「霊界通信」も「善」である。「霊界通信」至上主義になってしまっては、キリスト教と同じ間違いを繰り返しているに過ぎない。
「霊界通信によると、火星・水星・木星・土星――いずれの天体にも生命体(宇宙人)は存在すると言っている」
「物質次元の異なる世界は、一見、幽界と似ているようであるが、幽界ではない。どこまでも“物質次元”に属する世界なのである。そのような異次元物質世界が地球以外の惑星にも存在して、“異次元的物質的形態”を持った人間が住んでいると言うのである」
読んでいて情けなくなる。この記述によれば、
「火星・水星・木星・土星――いずれの天体にも」「“異次元的物質的形態”を持った人間が住んでいる」
と言うのだが、確かに何らかの生命が、ひょっとしたら惑星にも存在する可能性がないとも言えない。でも、その場合に問題となるのは「人間」というものの定義だ。スピリチュアリズムの場合、この「人間」というものの定義が、進化論を無視しているので、この記述の意味は不明である。他の動物は存在せず、惑星にはスピリチュアリズムの言うところの「人間」だけが存在しているのだろうか。
また、ここでは、その人間が“異次元的物質的形態”を持っていると書かれているが、この“異次元的物質的形態”とは何だろう。
人間にしろ、動物にしろ、心の部分を除いては、その身体を形作っている物質は、通常に存在する物質と同じである。生命と、外界にある元素とは、特に次元が異なっている訳ではない。これは、「“異次元的物質的形態”を持った人間が住んでいる」とされる、惑星も同じである。
どうして、同次元の物質によって形作られている惑星に、その存在だけが「“異次元的物質的形態”を持った」人間が存在しているんだろう。ここには、
「霊界通信の伝えるところでは、同じ物質世界でありながら、全く“物質状態”の異なる別の物質世界があると言うのである。宇宙は、物質次元の異なるさまざまな世界からなる“重複構造”になっていると言うのである。(これについては、今後の科学が明らかにしていくであろう)」
などと書かれているが、仮に、
「全く“物質状態”の異なる別の物質世界がある」
とするなら、その「異次元世界」と、僕らの住んでいる世界とは、別の世界ではないのか。「全く“物質状態”の異なる」と言いながら、僕らの住んでいる世界の物質で構成されている惑星と、位置関係だけが一致した場所に、「“異次元的物質的形態”を持った人間が住んでいる」というのは、意味不明だ。“異次元的物質的形態”というのであれば、わざわざ惑星に住んでいなくても、地球にいてもおかしくない。
こうした惑星に関する記述は、シュタイナーの著作にも書かれていたが、その原因は、人間の創造力の自由さだろうか。僕は、シュタイナーを読むことによって、瞑想ほど当てにならないものはない、と考えるに至ったが、僕らは、こうした恥ずかしい記述が、どうして生まれるのかを、考えてみてもいいだろう。いずれにしろ、「第六章 宇宙人」の記述には、到底、納得できない。
「進化という概念が存在しなかった、イエス・キリスト時代や、釈迦の時代なら、そうした思想を宗教指導者が説いたとしても、それは仕方がないことだ。ところが、科学によって地球の歴史、生命の歴史が明らかになり、神話が否定されたにもかかわらず、いつまでも、そうした主張を説き続けることを、僕は『善』ではなく『偽善』と呼ぶことにしている」
と書いたが、宗教とは「真理」ではなく、常に「善」でしかない。宗教の教えは、その時代にいくら有益性があったにしろ、「善」=「時代の産物」と見なすべきである。
「続スピリチュアリズム入門」の「第六章 宇宙人」も、同じだ。スピリチュアリズムの中には、キリスト教の教えを頑なに守る人々を嘆くような表現があるが、それは「霊界通信」についても言える。「霊界通信」も「善」である。「霊界通信」至上主義になってしまっては、キリスト教と同じ間違いを繰り返しているに過ぎない。
「霊界通信によると、火星・水星・木星・土星――いずれの天体にも生命体(宇宙人)は存在すると言っている」
「物質次元の異なる世界は、一見、幽界と似ているようであるが、幽界ではない。どこまでも“物質次元”に属する世界なのである。そのような異次元物質世界が地球以外の惑星にも存在して、“異次元的物質的形態”を持った人間が住んでいると言うのである」
読んでいて情けなくなる。この記述によれば、
「火星・水星・木星・土星――いずれの天体にも」「“異次元的物質的形態”を持った人間が住んでいる」
と言うのだが、確かに何らかの生命が、ひょっとしたら惑星にも存在する可能性がないとも言えない。でも、その場合に問題となるのは「人間」というものの定義だ。スピリチュアリズムの場合、この「人間」というものの定義が、進化論を無視しているので、この記述の意味は不明である。他の動物は存在せず、惑星にはスピリチュアリズムの言うところの「人間」だけが存在しているのだろうか。
また、ここでは、その人間が“異次元的物質的形態”を持っていると書かれているが、この“異次元的物質的形態”とは何だろう。
人間にしろ、動物にしろ、心の部分を除いては、その身体を形作っている物質は、通常に存在する物質と同じである。生命と、外界にある元素とは、特に次元が異なっている訳ではない。これは、「“異次元的物質的形態”を持った人間が住んでいる」とされる、惑星も同じである。
どうして、同次元の物質によって形作られている惑星に、その存在だけが「“異次元的物質的形態”を持った」人間が存在しているんだろう。ここには、
「霊界通信の伝えるところでは、同じ物質世界でありながら、全く“物質状態”の異なる別の物質世界があると言うのである。宇宙は、物質次元の異なるさまざまな世界からなる“重複構造”になっていると言うのである。(これについては、今後の科学が明らかにしていくであろう)」
などと書かれているが、仮に、
「全く“物質状態”の異なる別の物質世界がある」
とするなら、その「異次元世界」と、僕らの住んでいる世界とは、別の世界ではないのか。「全く“物質状態”の異なる」と言いながら、僕らの住んでいる世界の物質で構成されている惑星と、位置関係だけが一致した場所に、「“異次元的物質的形態”を持った人間が住んでいる」というのは、意味不明だ。“異次元的物質的形態”というのであれば、わざわざ惑星に住んでいなくても、地球にいてもおかしくない。
こうした惑星に関する記述は、シュタイナーの著作にも書かれていたが、その原因は、人間の創造力の自由さだろうか。僕は、シュタイナーを読むことによって、瞑想ほど当てにならないものはない、と考えるに至ったが、僕らは、こうした恥ずかしい記述が、どうして生まれるのかを、考えてみてもいいだろう。いずれにしろ、「第六章 宇宙人」の記述には、到底、納得できない。
