「続スピリチュアリズム入門」への感想8
「善とは『真理』ではない。個々人が、それを『真理』に至る道、言い換えれば『進化』に至る道として、正しいと思って行った意志活動なのである」
と前回は述べ、もう少し前には、
「悪とは、無知と必然である」
と書いた。そこからすると、「悪霊・低級霊」というのは受け入れ難い話である。一体、「悪霊」の何を持って「悪」とするのか。「低級霊」の何を持って「低級」とするのか。
まず「低級霊」から言えば、それを「高級霊」というものと比べれば、何かが「低い」ということである。でも、この世界には成長の概念としては「進化」しかない。「低級霊」より「高級霊」の方が、例えば、「利他愛」が優れていると言っても、それは単なる自己満足に過ぎない。何故なら、「利他愛」ではない、生命が互いに食べ合いながら、生命が互いに傷つけ合いながら、歴史を刻んでいく社会を作った、そのものが「神」だからである。
では、「悪霊」の「悪」とは何だろう。ここで思い出してしまうのが、つい最近、日本で話題になった通り魔事件である。通り魔で人を殺した人間がいる。それは悪霊の仕業なのか。ただ、殺人を起こした人間に、仮に悪霊が憑依していたとしよう。だが、殺された人たちは、何の罪もない人たちである。殺された人たちにも、この場合は、悪霊が憑依していたと言うのだろうか。でも、普通に普段通りの生活をし、何の危機感も感じず、たまたま現場に行った人たちに、悪霊が憑いていたとは考えにくい。いや、それ以前に、その人々の守護霊は何をしていたのだろう。背後霊は、どうして、その現場を避けるようなインスピレーションを与えなかったのか。
そこから明確な事実は1つ分かる。仮に霊というものがいるとするなら、その霊には、未来は予知できない、と言うことである。これは、これまで宇宙意志が試行錯誤を重ねて来たことでも、はっきりしている。仮に、宇宙意志に未来が予知できるなら、試行錯誤など、する必要がないからである。
となると、仮に、運悪く殺されてしまった人たちに守護霊、背後霊がいたとしても、彼らには、それが阻止できなかった、と言うことになる。
では、逆に犯人には、悪霊が憑いていたのだろうか。この場合の悪霊とは、人殺しをしたり、盗みを行ったり、人を悲しませたりするような行為に、その悪霊が憑依することによって、憑依した人間を導くような霊、とでも解釈しよう。でも、ここで考えるべきは、この犯人は、悪霊の憑依によって、自分を無くしてしまって、そうした犯罪を犯すわけではない、ということだ。仕方なくということはあるかもしれない、感情が高ぶって、ということもあるだろう。だが、その場合でも、そうした犯罪を犯すのは、自分を無くして、悪霊に支配されるのではなく、その人間が自らの意志で、考えた末に行った行為である、という点にある。
ここで「無知と必然」を出そう。まず、彼は許されざる行為を行った。しかし、それは、彼の社会への不満なのか、親への不満なのか、動機は複合的にしろ、彼にとっては「必然」だった、ということである。僕は、それが正しいとは言わない。だが、彼の状況から考えると、彼は、それを「必然」と考えた、と言うことはできるだろう。
そして、もう1つは、「無知」だ。彼は、見ず知らずの人間だからこそ、偶然、出会った人を殺すことができた。でも、その人間を知っていたら、どうだったろう。また、人を殺してしまうと、それによって、どれほどの人が嘆き、悲しむということを、もっと身近に感じていたなら、どうだったろう。彼の「無知」は、そこまでの考えを彼に与えなかった。だからこそ、彼は、殺人という行為に及んでしまったのだ。
仮に、これを悪霊の仕業にしてしまえば、それは犯人の魂の問題なので、仕方がない、ということになってしまう。でも、それを彼の「無知と必然」の問題とするなら、その改善は可能だ。何故なら、僕らの社会は、これまで「無知と必然の克服」という、大きな目標を持って、進化して来たからである。
ただ、そこでもう1つ、問題となって来るのが「憑依」という現象だ。僕は「憑依」などという現象を実際に見たことがないので、果たして、それが本当にあるのか否か、あったとしても霊の仕業なのか、どうなのかさえも分からない。だが、仮に「憑依」という現象があるとするなら、霊というのは、高級霊にしろ、低級霊にしろ、現世関与を1つの目標としている、そして、彼らの行動原理は、それが人間に迷惑を与えようと、与えまいと、彼らにとっては「善」なのである。試行錯誤の1つの方法が「憑依」と考えていいのではないか。
そして、そこで問題になるのが、「善」は「真理」ではないということ、「善」とは試行錯誤である、ということだ。間違っていると分かったなら、方向を修正できるもの、それが「善」である。
結論を言えば、この世界に、悪霊、低級霊なんて存在しない。ただ、それぞれが「善」だと考えるものが異なるだけである。そして、それぞれの異なる「善」は、試行錯誤の末に修正され、やがて「真」へと進化をしていく。魂の成長と言うのなら、それこそが魂の成長なのだ。
そして、ここで1つ「真」を述べるなら、「悪はない」と言うのが「真」である。にもかかわらず、悪霊や低級霊をことさらに強調するような教えがあるとするなら、僕は、それを「偽善」と呼びたい。
と前回は述べ、もう少し前には、
「悪とは、無知と必然である」
と書いた。そこからすると、「悪霊・低級霊」というのは受け入れ難い話である。一体、「悪霊」の何を持って「悪」とするのか。「低級霊」の何を持って「低級」とするのか。
まず「低級霊」から言えば、それを「高級霊」というものと比べれば、何かが「低い」ということである。でも、この世界には成長の概念としては「進化」しかない。「低級霊」より「高級霊」の方が、例えば、「利他愛」が優れていると言っても、それは単なる自己満足に過ぎない。何故なら、「利他愛」ではない、生命が互いに食べ合いながら、生命が互いに傷つけ合いながら、歴史を刻んでいく社会を作った、そのものが「神」だからである。
では、「悪霊」の「悪」とは何だろう。ここで思い出してしまうのが、つい最近、日本で話題になった通り魔事件である。通り魔で人を殺した人間がいる。それは悪霊の仕業なのか。ただ、殺人を起こした人間に、仮に悪霊が憑依していたとしよう。だが、殺された人たちは、何の罪もない人たちである。殺された人たちにも、この場合は、悪霊が憑依していたと言うのだろうか。でも、普通に普段通りの生活をし、何の危機感も感じず、たまたま現場に行った人たちに、悪霊が憑いていたとは考えにくい。いや、それ以前に、その人々の守護霊は何をしていたのだろう。背後霊は、どうして、その現場を避けるようなインスピレーションを与えなかったのか。
そこから明確な事実は1つ分かる。仮に霊というものがいるとするなら、その霊には、未来は予知できない、と言うことである。これは、これまで宇宙意志が試行錯誤を重ねて来たことでも、はっきりしている。仮に、宇宙意志に未来が予知できるなら、試行錯誤など、する必要がないからである。
となると、仮に、運悪く殺されてしまった人たちに守護霊、背後霊がいたとしても、彼らには、それが阻止できなかった、と言うことになる。
では、逆に犯人には、悪霊が憑いていたのだろうか。この場合の悪霊とは、人殺しをしたり、盗みを行ったり、人を悲しませたりするような行為に、その悪霊が憑依することによって、憑依した人間を導くような霊、とでも解釈しよう。でも、ここで考えるべきは、この犯人は、悪霊の憑依によって、自分を無くしてしまって、そうした犯罪を犯すわけではない、ということだ。仕方なくということはあるかもしれない、感情が高ぶって、ということもあるだろう。だが、その場合でも、そうした犯罪を犯すのは、自分を無くして、悪霊に支配されるのではなく、その人間が自らの意志で、考えた末に行った行為である、という点にある。
ここで「無知と必然」を出そう。まず、彼は許されざる行為を行った。しかし、それは、彼の社会への不満なのか、親への不満なのか、動機は複合的にしろ、彼にとっては「必然」だった、ということである。僕は、それが正しいとは言わない。だが、彼の状況から考えると、彼は、それを「必然」と考えた、と言うことはできるだろう。
そして、もう1つは、「無知」だ。彼は、見ず知らずの人間だからこそ、偶然、出会った人を殺すことができた。でも、その人間を知っていたら、どうだったろう。また、人を殺してしまうと、それによって、どれほどの人が嘆き、悲しむということを、もっと身近に感じていたなら、どうだったろう。彼の「無知」は、そこまでの考えを彼に与えなかった。だからこそ、彼は、殺人という行為に及んでしまったのだ。
仮に、これを悪霊の仕業にしてしまえば、それは犯人の魂の問題なので、仕方がない、ということになってしまう。でも、それを彼の「無知と必然」の問題とするなら、その改善は可能だ。何故なら、僕らの社会は、これまで「無知と必然の克服」という、大きな目標を持って、進化して来たからである。
ただ、そこでもう1つ、問題となって来るのが「憑依」という現象だ。僕は「憑依」などという現象を実際に見たことがないので、果たして、それが本当にあるのか否か、あったとしても霊の仕業なのか、どうなのかさえも分からない。だが、仮に「憑依」という現象があるとするなら、霊というのは、高級霊にしろ、低級霊にしろ、現世関与を1つの目標としている、そして、彼らの行動原理は、それが人間に迷惑を与えようと、与えまいと、彼らにとっては「善」なのである。試行錯誤の1つの方法が「憑依」と考えていいのではないか。
そして、そこで問題になるのが、「善」は「真理」ではないということ、「善」とは試行錯誤である、ということだ。間違っていると分かったなら、方向を修正できるもの、それが「善」である。
結論を言えば、この世界に、悪霊、低級霊なんて存在しない。ただ、それぞれが「善」だと考えるものが異なるだけである。そして、それぞれの異なる「善」は、試行錯誤の末に修正され、やがて「真」へと進化をしていく。魂の成長と言うのなら、それこそが魂の成長なのだ。
そして、ここで1つ「真」を述べるなら、「悪はない」と言うのが「真」である。にもかかわらず、悪霊や低級霊をことさらに強調するような教えがあるとするなら、僕は、それを「偽善」と呼びたい。
