「続スピリチュアリズム入門」への感想7
以前、僕の書いたものを読んでくれた人から「あなたの書くものは、難しすぎて訳が分からん」と言われたことがある。確かに、分からないかもしれない。
前回、書いた文章も、訳の分からない文章だろうか。訳が分からないじゃ意味がないので、分かりやすく書きたいと思う。
少し前に、僕は「魂の成長」というものを否定した。それは、この宇宙には、成長の要素というのは「進化」以外にはない、と判断したからだ。ただ、この宇宙の成長の要素は「進化」だけだが、僕らが、この宇宙に生きているのは「進化」をするためだけではない。子供は放っておいても大人になる。この大人になることが「進化」だとしたら、その「進化」を重ねる間に、どのような生き方をするか、が大事になる。
それを前回、「美と善」という言葉で紹介した。では、美とは何か。善とは何か。少し前に、僕は「悪」を否定したにもかかわらず、どうして、再び、ここで善が出てくるのか。
まず美である。これは美術の美だけでなく、もっと広い意味の美。つまり、この瞬間を生きる喜びのことだ。美しい、気持ちいい、楽しい、安らかである。この瞬間に感じる幸福感、それを美と僕は考える。そして、この美=生きる喜びを味わっているのは、人間だけではない。すべての生命が、生きる喜びを感じるからこそ、生きている。それは、おいしい獲物を食べた瞬間かもしれない。素敵な伴侶を得た時かもしれない。欲望の充足も立派な美である。
この宇宙は、時空として広がっている。つまり、時間によって、僕たちの生きる姿が宇宙に常に刻まれている。その瞬間で味わった幸福感=美というものは、この宇宙が続く限り、永遠に時空として残っている。美とは、僕たちがどのように生き、どのように幸福感を味わったのか、という明確な概念である。
問題は、善である。僕は確かに悪を否定したが、この宇宙が試行錯誤を重ねてきたことは述べてきた。この試行錯誤には、当然、価値判断というものが含まれている。片方の道を選んだが、それがダメだった、価値として捨てざる得なかったからこそ、試行錯誤は成り立つ。計画を立て、その通りに進んでみたが、やはりダメだった。だから違う、やり方を考える。それが試行錯誤である。
では、これまでの宇宙では、その試行錯誤とは何のために行われてきたのか、と言えば、それは「進化」のためである。ただ、「進化」のための方法が、最初から、宇宙の意志に分かっているとすれば、わざわざ試行錯誤など行う必要はない。分かっていないからこそ、試行錯誤というものは成立する。
となると、この宇宙には、こうすればいいだろうという意志が働いていることになる。つまり、善とは、「進化」に向かって、それぞれの意志が、こうすればいいだろうという計画を立て、それに向かって、時間軸に何かを刻んでいくこと、それこそが善なのである。
イエス・キリストの弟子が、神の教えを説くためにキリストの生涯と彼の言葉を後世に残した、それが善だ。シルバーバーチが、高級霊として物質主義、唯物論からの人類の脱皮を説いた、これも善である。善とは「真理」ではない。個々人が、それを「真理」に至る道、言い換えれば「進化」に至る道として、正しいと思って行った意志活動なのである。
本当の真理は、高級霊にさえ分からない。分かるなら、試行錯誤などしないだろう。分からないが、それを正しいと信じ、そのための努力を行うこと、それが善なのだ。
その意味で、人間の魂というものが、それなりの目標を持って、この現世に生まれて来るということは、可能性のないことではない。それこそが善なのである。その善があったからこそ、進化が重ねられてきた、とも言えるのではないだろうか。だとすれば、「続スピリチュアリズム」にあった文章、
「守護霊は地上人の魂の成長のために“最善の道”を歩ませようと努力・援助する」
「その人間の背後霊となって『地上に働きかけたい!』と願う霊が現実に数多くいるのである」
などの言葉も理解できる。何故なら、当初から宇宙意志=霊というのは、現世関与を1つの目的としていた、と考えられるからだ。彼らは、彼らなりの「善」を成すことを目標にしていると思えるからである。
ただ、これは、あくまで守護霊、背後霊というものが、いたらの話である。何せ、僕は守護霊にも背後霊にも会ったこともなければ、そうしたものがいるという証明も行っていない。
この「守護霊、背後霊」についての考察が、かなり長くなってしまったので、次の項目に移りながら、さらに考察を深めたいと思う。
前回、書いた文章も、訳の分からない文章だろうか。訳が分からないじゃ意味がないので、分かりやすく書きたいと思う。
少し前に、僕は「魂の成長」というものを否定した。それは、この宇宙には、成長の要素というのは「進化」以外にはない、と判断したからだ。ただ、この宇宙の成長の要素は「進化」だけだが、僕らが、この宇宙に生きているのは「進化」をするためだけではない。子供は放っておいても大人になる。この大人になることが「進化」だとしたら、その「進化」を重ねる間に、どのような生き方をするか、が大事になる。
それを前回、「美と善」という言葉で紹介した。では、美とは何か。善とは何か。少し前に、僕は「悪」を否定したにもかかわらず、どうして、再び、ここで善が出てくるのか。
まず美である。これは美術の美だけでなく、もっと広い意味の美。つまり、この瞬間を生きる喜びのことだ。美しい、気持ちいい、楽しい、安らかである。この瞬間に感じる幸福感、それを美と僕は考える。そして、この美=生きる喜びを味わっているのは、人間だけではない。すべての生命が、生きる喜びを感じるからこそ、生きている。それは、おいしい獲物を食べた瞬間かもしれない。素敵な伴侶を得た時かもしれない。欲望の充足も立派な美である。
この宇宙は、時空として広がっている。つまり、時間によって、僕たちの生きる姿が宇宙に常に刻まれている。その瞬間で味わった幸福感=美というものは、この宇宙が続く限り、永遠に時空として残っている。美とは、僕たちがどのように生き、どのように幸福感を味わったのか、という明確な概念である。
問題は、善である。僕は確かに悪を否定したが、この宇宙が試行錯誤を重ねてきたことは述べてきた。この試行錯誤には、当然、価値判断というものが含まれている。片方の道を選んだが、それがダメだった、価値として捨てざる得なかったからこそ、試行錯誤は成り立つ。計画を立て、その通りに進んでみたが、やはりダメだった。だから違う、やり方を考える。それが試行錯誤である。
では、これまでの宇宙では、その試行錯誤とは何のために行われてきたのか、と言えば、それは「進化」のためである。ただ、「進化」のための方法が、最初から、宇宙の意志に分かっているとすれば、わざわざ試行錯誤など行う必要はない。分かっていないからこそ、試行錯誤というものは成立する。
となると、この宇宙には、こうすればいいだろうという意志が働いていることになる。つまり、善とは、「進化」に向かって、それぞれの意志が、こうすればいいだろうという計画を立て、それに向かって、時間軸に何かを刻んでいくこと、それこそが善なのである。
イエス・キリストの弟子が、神の教えを説くためにキリストの生涯と彼の言葉を後世に残した、それが善だ。シルバーバーチが、高級霊として物質主義、唯物論からの人類の脱皮を説いた、これも善である。善とは「真理」ではない。個々人が、それを「真理」に至る道、言い換えれば「進化」に至る道として、正しいと思って行った意志活動なのである。
本当の真理は、高級霊にさえ分からない。分かるなら、試行錯誤などしないだろう。分からないが、それを正しいと信じ、そのための努力を行うこと、それが善なのだ。
その意味で、人間の魂というものが、それなりの目標を持って、この現世に生まれて来るということは、可能性のないことではない。それこそが善なのである。その善があったからこそ、進化が重ねられてきた、とも言えるのではないだろうか。だとすれば、「続スピリチュアリズム」にあった文章、
「守護霊は地上人の魂の成長のために“最善の道”を歩ませようと努力・援助する」
「その人間の背後霊となって『地上に働きかけたい!』と願う霊が現実に数多くいるのである」
などの言葉も理解できる。何故なら、当初から宇宙意志=霊というのは、現世関与を1つの目的としていた、と考えられるからだ。彼らは、彼らなりの「善」を成すことを目標にしていると思えるからである。
ただ、これは、あくまで守護霊、背後霊というものが、いたらの話である。何せ、僕は守護霊にも背後霊にも会ったこともなければ、そうしたものがいるという証明も行っていない。
この「守護霊、背後霊」についての考察が、かなり長くなってしまったので、次の項目に移りながら、さらに考察を深めたいと思う。
