「続スピリチュアリズム入門」への感想6
子供は放っておいても、大人になる。そこに必要なのは「時間」のみである。中には、大人になる前に死んでしまう生命もあるが、ここで大事なのは、この宇宙には、2つの「生命を超えた存在」があるということだ。
その1つが、生命を超えた「継承」であり、もう1つが、生命を超えた「秩序」である。このうちの1番目、この宇宙には、生命を超えた「継承」が厳然として行われているからこそ、ここで言う「時間」というものも、生命という枠組みを超えた「時間」ということである。
僕は、この、
生命を超えた「時間」
の存在、そして、さらに、
生命を超えた「秩序」
の存在こそが、人間の魂、意志が1回こっきりのものではない証拠であると考えているのだが、そう考えると、前回、時間について書いた、
「現世に存在する時間」
というものも、別の意味を帯びてくる。仮に、人間に1回の生命を超えた、魂なり、意志なりというものがあるとするなら、輪廻転生を繰り返しながら経験する、
「現世に存在する時間」
こそが、成長にとって唯一無比の要素なのである。成長というものが「進化」であり、「進化」というものに「究極の進化」というものが存在するとするなら、まさに僕らは、「現世に存在する時間」によって、そこに向かって歩んでいる、と言えるだろう。
だが、ここで肝心なのは、僕らに大切なのは、僕らは放って置かれても大人になるとしても、一体、どんな大人になるのか、という問題である。でも、これは、大人の僕から考えると、実は、正確な言葉ではない。僕は大人だが、どんな大人なのか、と聞かれても困ってしまう。言ってみれば、僕は、いつの間にか大人になってしまい、「こんな大人です」と自信を持って語るほどのものは、何も持っていない。実は、成長で一番大事なのは、どんな風な子供時代を過ごし、何を夢見て、どんなことを行って、大人になっても、「これが大人です」などという終着点はなくて、常に、自分が納得できるような生き方をしていきたい、その繰り返しだと思うのだ。つまり、成長の先は、大人になり、死んでいくだけであり、問題になるのは、その時々の生き方、言い方を変えれば、「どんな風に大人になって行ったのか」という過程が大事なのである。
そして、それこそが、前回に書いた、
「成長に伴う個々のドラマ」
と言うことではないか。
そして、ここで思い出しておきたいのが、この世界を導いている意志なり、霊なりという存在は、この宇宙が無生物の時代から、数々の試行錯誤を繰り返してきた、ということである。となれば、霊が人間として生命を持ち、この世界に存在しようとする理由も同じである。常に「試行錯誤」が、この世界のキーワードと言うことではないのか。
そして、その「試行錯誤」の1つの目的は「進化」だった。でも、それと共に、この世界には「どんな風に大人になって行ったのか」という大きな価値観が存在する。いや、それどころか、「進化」そのものよりも、この「どんな風に大人になって行ったのか」の方が、本当は大事なものである可能性の方が高い。
この「どんな風に大人になって行ったのか」を言い換えれば、「自己満足」と言えるのかもしれない。前回、利他愛に関して、
「地上人に、守護霊、背後霊も加わって『自己満足』を目指すことが、ここで言う『魂の成長』なんだろうか」
と書き、僕は、この「魂の成長」という概念を否定したが、実は、本当に、地上人に守護霊、背後霊も加わって「自己満足」を目指しているのが、この世界の実相かもしれない。ただ、そこには「魂の成長」ではなく、別の価値観=基準が存在する。それが、
「善と美」
ではないか、というのが僕の考えだ。「魂の成長」ではなく「善と美」、それについては次回、考えたい。
その1つが、生命を超えた「継承」であり、もう1つが、生命を超えた「秩序」である。このうちの1番目、この宇宙には、生命を超えた「継承」が厳然として行われているからこそ、ここで言う「時間」というものも、生命という枠組みを超えた「時間」ということである。
僕は、この、
生命を超えた「時間」
の存在、そして、さらに、
生命を超えた「秩序」
の存在こそが、人間の魂、意志が1回こっきりのものではない証拠であると考えているのだが、そう考えると、前回、時間について書いた、
「現世に存在する時間」
というものも、別の意味を帯びてくる。仮に、人間に1回の生命を超えた、魂なり、意志なりというものがあるとするなら、輪廻転生を繰り返しながら経験する、
「現世に存在する時間」
こそが、成長にとって唯一無比の要素なのである。成長というものが「進化」であり、「進化」というものに「究極の進化」というものが存在するとするなら、まさに僕らは、「現世に存在する時間」によって、そこに向かって歩んでいる、と言えるだろう。
だが、ここで肝心なのは、僕らに大切なのは、僕らは放って置かれても大人になるとしても、一体、どんな大人になるのか、という問題である。でも、これは、大人の僕から考えると、実は、正確な言葉ではない。僕は大人だが、どんな大人なのか、と聞かれても困ってしまう。言ってみれば、僕は、いつの間にか大人になってしまい、「こんな大人です」と自信を持って語るほどのものは、何も持っていない。実は、成長で一番大事なのは、どんな風な子供時代を過ごし、何を夢見て、どんなことを行って、大人になっても、「これが大人です」などという終着点はなくて、常に、自分が納得できるような生き方をしていきたい、その繰り返しだと思うのだ。つまり、成長の先は、大人になり、死んでいくだけであり、問題になるのは、その時々の生き方、言い方を変えれば、「どんな風に大人になって行ったのか」という過程が大事なのである。
そして、それこそが、前回に書いた、
「成長に伴う個々のドラマ」
と言うことではないか。
そして、ここで思い出しておきたいのが、この世界を導いている意志なり、霊なりという存在は、この宇宙が無生物の時代から、数々の試行錯誤を繰り返してきた、ということである。となれば、霊が人間として生命を持ち、この世界に存在しようとする理由も同じである。常に「試行錯誤」が、この世界のキーワードと言うことではないのか。
そして、その「試行錯誤」の1つの目的は「進化」だった。でも、それと共に、この世界には「どんな風に大人になって行ったのか」という大きな価値観が存在する。いや、それどころか、「進化」そのものよりも、この「どんな風に大人になって行ったのか」の方が、本当は大事なものである可能性の方が高い。
この「どんな風に大人になって行ったのか」を言い換えれば、「自己満足」と言えるのかもしれない。前回、利他愛に関して、
「地上人に、守護霊、背後霊も加わって『自己満足』を目指すことが、ここで言う『魂の成長』なんだろうか」
と書き、僕は、この「魂の成長」という概念を否定したが、実は、本当に、地上人に守護霊、背後霊も加わって「自己満足」を目指しているのが、この世界の実相かもしれない。ただ、そこには「魂の成長」ではなく、別の価値観=基準が存在する。それが、
「善と美」
ではないか、というのが僕の考えだ。「魂の成長」ではなく「善と美」、それについては次回、考えたい。
