「続スピリチュアリズム入門」への感想4
前回は、再び思い切って、
「シルバーバーチ派の大霊団による『人類歴史最大のビッグプロジェクト』思想というのは、間違いだと言うことだ」
と書いた。その理由は、守護霊、背後霊という存在がいるとするなら、すでに霊は、現世関与を行っていると考えられるからだ。では、一体、守護霊、背後霊といった存在は、何のために現世関与を行っているのだろう。今回は、その方向で考えを進めたい。
前回、僕は、「この宇宙に、物質世界とは異なる、意志という存在があるとするなら」として、宇宙創生の頃からの、意志が行ってきた現世関与について述べてきた。宇宙に恒星を作り、惑星を作り、そこに生命を誕生させ、その結果、その生命の1つである僕が、今、パソコンを前にして、ない頭を使い、いろいろと考えている。でも、そんな、ない頭の僕でも、この意志が行おうとして来たことは明確に分かる。それは「進化」である。
仏教、キリスト教、そしてスピリチュアリズム、いろいろな教えが世の中にはあふれているが、そうした宗教的教えの中に一番欠如しているのが、この「進化」という事実ではないだろうか。最も、イエスがキリスト教を、釈迦が仏教を説いた時、そこに人間が原生動物から進化したということなど考えが及ばなかったに違いない。この宇宙に生命が誕生して50億年だとするなら、その倍の100億年もの間、この宇宙に無生物の時代があったことなど想像もできなかっただろう。それは仕方がないことだ。
ただ、真理を考えるためには、もう1つ、過去と共に、未来への言及も必要である。今の人間は、自らを進化の頂点のように考えがちだが、そうではない。まだまだ人間は進化をし続けている。前回、「人類が月に降り立ち、近隣の惑星に探査衛星が飛ぶ時代」と書いたが、やがて、科学技術の進歩により、人類が近隣の惑星に行く時代、さらには人類が太陽系を離れ、他の天体へと足を伸ばす時代が来るかもしれない。それと同時に、太陽の寿命が100億年とするなら、後50億年の時間が流れれば、この地球にさえ住めない時代が来る。それは絵空事ではない。科学的な事実である。そして真理というのは、その時代になっても、真理であり続けるものでなくては、真理とは呼べないだろう。
だとするなら、これまでの歴史の中で、意志が行ってきた現世関与の大きな柱である「進化」という命題は、決して終わってしまったのではなく、まだ継続して行うべき命題であることに変わりはないと考えられる。
であるなら、たかだか現在の科学技術の今の世界を、高級霊が「“唯物主義”や“利己主義”」と言って攻撃するのは、おかしな話である。霊界は、さらなる進化を願っていると考えた方が妥当だ。
ただ、問題は、果たして霊界が求めているものが、「進化」だけなのかどうか、という点である。
この世界には、現代では進化の頂点とされる人間もいるが、相変わらず、原生動物というのも存在している。もちろん、食物連鎖というもので、この世界は成り立っているので、食べられる生命も含めて、地球上の限り合う資源を循環させ、維持させていかないと、この生態系が成り立たないという側面もあるが、それでは食べられる動物というのは、食べられるためだけに存在しているのだろうか。
そう考えると、それも違うような気がする。何故なら、「進化」が目的のすべてだとするなら、この世界には「進化」に無関係な生命が多すぎる。それに、もう1つ、「進化」とは無縁の存在がいる。それが何を隠そう、僕自身だ。
僕は科学者でもなければ、医者でもない。生まれてから今日まで、僕が人類の進化に役立つような何かを行ったのかと問われれば、何もしていない、というのが正直なところである。では、僕と言う存在は無駄なのか。でも、翻って考えてみれば、僕以外の人たち、進化の頂点であるはずの人間として存在しているはずの人たちだって、「進化」とは無縁である。それでは、僕を含め、地球上にいる幾多の動物たち、植物たちも含め、さらに進化に無関係な多くの人々を含め、そうした存在は何のために存在するのか。それは、言ってみれば、進化ではない、存在すること、それ自体に、価値がある、と考えるべきだろう。
もし、仮に宇宙の目的が進化だけだとするなら、究極的にこの宇宙を作った存在=「神」は、わざわざ宇宙など作る必要はなかったはずだ。何故なら、彼こそが「唯一絶対神」だからである。彼が、わざわざ進化をゼロに戻し、進化を始めた理由は、進化ではないと考えるべきである。ならば、それは何なのか。それが果たして「魂の成長」なのか否か。それを次回に考えてみたい。
「シルバーバーチ派の大霊団による『人類歴史最大のビッグプロジェクト』思想というのは、間違いだと言うことだ」
と書いた。その理由は、守護霊、背後霊という存在がいるとするなら、すでに霊は、現世関与を行っていると考えられるからだ。では、一体、守護霊、背後霊といった存在は、何のために現世関与を行っているのだろう。今回は、その方向で考えを進めたい。
前回、僕は、「この宇宙に、物質世界とは異なる、意志という存在があるとするなら」として、宇宙創生の頃からの、意志が行ってきた現世関与について述べてきた。宇宙に恒星を作り、惑星を作り、そこに生命を誕生させ、その結果、その生命の1つである僕が、今、パソコンを前にして、ない頭を使い、いろいろと考えている。でも、そんな、ない頭の僕でも、この意志が行おうとして来たことは明確に分かる。それは「進化」である。
仏教、キリスト教、そしてスピリチュアリズム、いろいろな教えが世の中にはあふれているが、そうした宗教的教えの中に一番欠如しているのが、この「進化」という事実ではないだろうか。最も、イエスがキリスト教を、釈迦が仏教を説いた時、そこに人間が原生動物から進化したということなど考えが及ばなかったに違いない。この宇宙に生命が誕生して50億年だとするなら、その倍の100億年もの間、この宇宙に無生物の時代があったことなど想像もできなかっただろう。それは仕方がないことだ。
ただ、真理を考えるためには、もう1つ、過去と共に、未来への言及も必要である。今の人間は、自らを進化の頂点のように考えがちだが、そうではない。まだまだ人間は進化をし続けている。前回、「人類が月に降り立ち、近隣の惑星に探査衛星が飛ぶ時代」と書いたが、やがて、科学技術の進歩により、人類が近隣の惑星に行く時代、さらには人類が太陽系を離れ、他の天体へと足を伸ばす時代が来るかもしれない。それと同時に、太陽の寿命が100億年とするなら、後50億年の時間が流れれば、この地球にさえ住めない時代が来る。それは絵空事ではない。科学的な事実である。そして真理というのは、その時代になっても、真理であり続けるものでなくては、真理とは呼べないだろう。
だとするなら、これまでの歴史の中で、意志が行ってきた現世関与の大きな柱である「進化」という命題は、決して終わってしまったのではなく、まだ継続して行うべき命題であることに変わりはないと考えられる。
であるなら、たかだか現在の科学技術の今の世界を、高級霊が「“唯物主義”や“利己主義”」と言って攻撃するのは、おかしな話である。霊界は、さらなる進化を願っていると考えた方が妥当だ。
ただ、問題は、果たして霊界が求めているものが、「進化」だけなのかどうか、という点である。
この世界には、現代では進化の頂点とされる人間もいるが、相変わらず、原生動物というのも存在している。もちろん、食物連鎖というもので、この世界は成り立っているので、食べられる生命も含めて、地球上の限り合う資源を循環させ、維持させていかないと、この生態系が成り立たないという側面もあるが、それでは食べられる動物というのは、食べられるためだけに存在しているのだろうか。
そう考えると、それも違うような気がする。何故なら、「進化」が目的のすべてだとするなら、この世界には「進化」に無関係な生命が多すぎる。それに、もう1つ、「進化」とは無縁の存在がいる。それが何を隠そう、僕自身だ。
僕は科学者でもなければ、医者でもない。生まれてから今日まで、僕が人類の進化に役立つような何かを行ったのかと問われれば、何もしていない、というのが正直なところである。では、僕と言う存在は無駄なのか。でも、翻って考えてみれば、僕以外の人たち、進化の頂点であるはずの人間として存在しているはずの人たちだって、「進化」とは無縁である。それでは、僕を含め、地球上にいる幾多の動物たち、植物たちも含め、さらに進化に無関係な多くの人々を含め、そうした存在は何のために存在するのか。それは、言ってみれば、進化ではない、存在すること、それ自体に、価値がある、と考えるべきだろう。
もし、仮に宇宙の目的が進化だけだとするなら、究極的にこの宇宙を作った存在=「神」は、わざわざ宇宙など作る必要はなかったはずだ。何故なら、彼こそが「唯一絶対神」だからである。彼が、わざわざ進化をゼロに戻し、進化を始めた理由は、進化ではないと考えるべきである。ならば、それは何なのか。それが果たして「魂の成長」なのか否か。それを次回に考えてみたい。
