「続スピリチュアリズム入門」への感想2
「続スピリチュアル入門」、第一部第一章は、
「神とは」
で始まる。見出しを順番に書かせてもらうと、
(一) 神は唯一の存在であり、無形の存在である
(二) 神は霊界・宇宙の創造者である
(三) 神は人間にとって霊的な親であり、愛なる親である
(四) 神は法則を通じて霊界・宇宙を支配している
となる。仮に、これらの意味するところ、スピリチュアリズムが説いている神を「唯一絶対神」だとしよう。もし、本当に、スピリチュアリズムが説いているのが「唯一絶対神」だとしたなら、それは、百害あって一利なしと言わざる得ないだろう。
何故、「唯一絶対神」が百害あって一利なしなのかと言えば、第1に、そうした主張が、過去に、この世界にもたらしたのは「対立」だけだったからである。
スピリチュアリズムの言う「唯一絶対神」が、もし、キリスト教と違うのであれば、キリスト教は間違った教えということになる。イスラム教と違っていたとしても、同じことだ。ならば、間違った神を信じる人間を、「唯一絶対神」の信者は許せるだろうか。許せないのだとしたら、「唯一絶対神」の信者は、そうした間違いを駆逐することが1つの使命になるだろう。
これまで人間の歴史で繰り返してきた宗教対立を、再び、新たな「唯一絶対神」で、もし、本当に巻き起こそうとしているのであれば、高級霊と呼ばれる存在は、それだけで高級霊は失格ではないか。
また、第2に、「唯一絶対神」という思想は、それに帰依することにより、人間の批判精神を奪い、思考停止に陥らせる危険性を有している。ヨーロッパの中世社会がそうだったように、帰依を1つの絶対的価値観として、それを冒涜することを罪悪としてしまえば、そこから先の理性や批判精神といったものは生まれない。
これはシュタイナーの思想の中にも含まれていたが、「唯一絶対神」への帰依を1つの美徳、1つの評価対象として考えるのは、キリスト教的価値観の特徴でもある。神を疑わず、神を試さず、いざとなれば、神のために死も厭わないといった考えは、1つの美徳であり、1つの評価対象ではあるが、それは一方で人間の批判精神を奪い、思考停止させる。
だが、そう書いても、そうした「唯一絶対神」が霊界の真実なのだから、仕方がない、と思う人もいるかもしれない。だが、だったら、「唯一絶対神」の信者に聞いてみたい。神が霊界・宇宙を創造したとしよう。ならば、この宇宙に無生物の時代が100億年も存在したのは何故だろう。人も動物もいない時代に、この「唯一絶対神」は何をしていたと言うのか。さらに、この「唯一絶対神」は、いきなり、この地球に人間を作ったのではない。最初に作ったのは原生生物であり、そんな時代の方が、動物の時代よりも長い。さらに、海の中の生物の時代や、恐竜の時代、原始人の時代などを経て、ようやく生まれたのが人類だ。その間には、絶滅してしまった動植物も数多い。もし、神が「唯一絶対神」だとしたら、何故、こうした試行錯誤を繰り返しているのか。
ここには「法」を「根本真理」とした仏教が批判的に書かれているが、これまでの歴史の流れを見てみると、こちらの方が説得力がある。「神」の概念を避け、それを「法」に求めたのは、仏教というものの1つの叡智ではないだろうか。しかし、仏教には、この世界の根本概念が欠けている。それが「進化」という事実だろう。ただ、釈迦の時代には「進化」という概念すら知られていなかった。だから、これは仕方がないとも言えるのだが。
神を「唯一絶対神」と考えるのが明らかに間違いであり、可能性があるのは、「唯一神」といった程度だが、ならば、神などを持ち出さなくても「宇宙は1つ、真理は1つ」で十分である。神という呼び方で、その存在に人格的な意味合いを持たせる必要はないだろう。
さらに「霊界では神の存在を疑う者はいない」というのも、僕には、仮に霊界というものがあるとするなら、そこでは、この現世に脈々と流れている「進化」という大きな目標を、生命という枠組みを超えて感じ取れる、くらいの意味合いではないか、と考える。この宇宙には、明確な継続した意志というものが存在する。それが霊界で言うところの「神」であるとするなら、そのようにも考えられる。
いずれにしろ、この時代にスピリチュアリズムで「唯一絶対神」を語る必要などない。それは百害あって一理なしである。もちろん、究極的には、この宇宙を作った存在というものが「神」と呼べるかもしれない。だが、「神」は、すべてを法則に託し、この世界への関与など行っていない。ならば、敢えて、帰依の必要性などないのだ。そう考えるべきである。
「神とは」
で始まる。見出しを順番に書かせてもらうと、
(一) 神は唯一の存在であり、無形の存在である
(二) 神は霊界・宇宙の創造者である
(三) 神は人間にとって霊的な親であり、愛なる親である
(四) 神は法則を通じて霊界・宇宙を支配している
となる。仮に、これらの意味するところ、スピリチュアリズムが説いている神を「唯一絶対神」だとしよう。もし、本当に、スピリチュアリズムが説いているのが「唯一絶対神」だとしたなら、それは、百害あって一利なしと言わざる得ないだろう。
何故、「唯一絶対神」が百害あって一利なしなのかと言えば、第1に、そうした主張が、過去に、この世界にもたらしたのは「対立」だけだったからである。
スピリチュアリズムの言う「唯一絶対神」が、もし、キリスト教と違うのであれば、キリスト教は間違った教えということになる。イスラム教と違っていたとしても、同じことだ。ならば、間違った神を信じる人間を、「唯一絶対神」の信者は許せるだろうか。許せないのだとしたら、「唯一絶対神」の信者は、そうした間違いを駆逐することが1つの使命になるだろう。
これまで人間の歴史で繰り返してきた宗教対立を、再び、新たな「唯一絶対神」で、もし、本当に巻き起こそうとしているのであれば、高級霊と呼ばれる存在は、それだけで高級霊は失格ではないか。
また、第2に、「唯一絶対神」という思想は、それに帰依することにより、人間の批判精神を奪い、思考停止に陥らせる危険性を有している。ヨーロッパの中世社会がそうだったように、帰依を1つの絶対的価値観として、それを冒涜することを罪悪としてしまえば、そこから先の理性や批判精神といったものは生まれない。
これはシュタイナーの思想の中にも含まれていたが、「唯一絶対神」への帰依を1つの美徳、1つの評価対象として考えるのは、キリスト教的価値観の特徴でもある。神を疑わず、神を試さず、いざとなれば、神のために死も厭わないといった考えは、1つの美徳であり、1つの評価対象ではあるが、それは一方で人間の批判精神を奪い、思考停止させる。
だが、そう書いても、そうした「唯一絶対神」が霊界の真実なのだから、仕方がない、と思う人もいるかもしれない。だが、だったら、「唯一絶対神」の信者に聞いてみたい。神が霊界・宇宙を創造したとしよう。ならば、この宇宙に無生物の時代が100億年も存在したのは何故だろう。人も動物もいない時代に、この「唯一絶対神」は何をしていたと言うのか。さらに、この「唯一絶対神」は、いきなり、この地球に人間を作ったのではない。最初に作ったのは原生生物であり、そんな時代の方が、動物の時代よりも長い。さらに、海の中の生物の時代や、恐竜の時代、原始人の時代などを経て、ようやく生まれたのが人類だ。その間には、絶滅してしまった動植物も数多い。もし、神が「唯一絶対神」だとしたら、何故、こうした試行錯誤を繰り返しているのか。
ここには「法」を「根本真理」とした仏教が批判的に書かれているが、これまでの歴史の流れを見てみると、こちらの方が説得力がある。「神」の概念を避け、それを「法」に求めたのは、仏教というものの1つの叡智ではないだろうか。しかし、仏教には、この世界の根本概念が欠けている。それが「進化」という事実だろう。ただ、釈迦の時代には「進化」という概念すら知られていなかった。だから、これは仕方がないとも言えるのだが。
神を「唯一絶対神」と考えるのが明らかに間違いであり、可能性があるのは、「唯一神」といった程度だが、ならば、神などを持ち出さなくても「宇宙は1つ、真理は1つ」で十分である。神という呼び方で、その存在に人格的な意味合いを持たせる必要はないだろう。
さらに「霊界では神の存在を疑う者はいない」というのも、僕には、仮に霊界というものがあるとするなら、そこでは、この現世に脈々と流れている「進化」という大きな目標を、生命という枠組みを超えて感じ取れる、くらいの意味合いではないか、と考える。この宇宙には、明確な継続した意志というものが存在する。それが霊界で言うところの「神」であるとするなら、そのようにも考えられる。
いずれにしろ、この時代にスピリチュアリズムで「唯一絶対神」を語る必要などない。それは百害あって一理なしである。もちろん、究極的には、この宇宙を作った存在というものが「神」と呼べるかもしれない。だが、「神」は、すべてを法則に託し、この世界への関与など行っていない。ならば、敢えて、帰依の必要性などないのだ。そう考えるべきである。
