「スピリチュアリズム入門」への感想2
これは前回にも述べたことだが、僕は、ここで取り上げている「スピリチュアリズム入門」について、疑いを持って接しているわけではない。できれば、信じたい、それどころか、信じて安堵の気持ちを得たいと、祈るような気持ちで接したつもりだ。だが、それが果たされないと、空しさのようなものが襲って来る。この空しさは何なのか、それは僕にも分からない。
「スピリチュアリズム入門」の第二部に目を通した。ここで、まず最初に、僕をガッカリさせたのは、
「地上だけの肉体しか持たない動物とは異なり、人間だけが永遠の霊体を持っているという驚くべき事実」
という言葉だ。
まず、仮に人間だけが「永遠の霊体」を持っているとしたら、一体、いつから、持っているのだろうか。人間は猿から進化をした存在であり、そこから遥か昔、地球誕生の頃まで遡れば、人間の始まりは原生動物である。この記述で言うなら、猿から人間に進化した途端に、「人間だけが」「永遠の霊体」を手に入れたと言うことか。ならば、人間といっても、4、500年前のアウストラロピテクスに始まる猿人の時代には、「永遠の霊体」を手にしていたのか。それとも150万年前の原人の時代になって、それを手にしたのか。それとも2、30万年前の旧人の時代か、それとも1、2万年前の新人と呼ばれる、今の人間の直接の先祖が現れてからなのか。
まさか、神の手によって、アダムとイブという人類がいきなり誕生したという神話をベースにして、
「地上だけの肉体しか持たない動物とは異なり、人間だけが永遠の霊体を持っているという驚くべき事実」
という言葉が書かれているとは思いたくはないが、この言葉の空しさは、何だろう。
そして、ここには、そうした「永遠の霊体」を持つという人間が目指すものとして、「利他愛」というものが説かれ、
「神が人類に対して抱く思いは、まさしくこの“親の愛”――自分のことより相手のことを先に心配する愛――自分より先に相手に幸せになってもらいたいと思う愛なのである。“完全な無償の愛、利他的愛”が神の愛の本質である」
などと書かれているが、これがまた、空しい言葉であることは、NHKテレビの動物番組を見れば、一目瞭然だ。この地球上で、何の見返りもない"親の愛”、“完全な無償の愛、利他的愛”を実践し続けているのは、人間ではない、たくさんの動物たちである。彼らの"親の愛”は、種族によって、その手法は異なるにしろ、知識ではない、本能で、愛を実践し、命をつないでいる。その事実を前にして、
「地上だけの肉体しか持たない動物とは異なり、人間だけが永遠の霊体を持っているという驚くべき事実」
などと説くことに、何の価値があるだろう。
そして、それ以上に空しいのは、他でもない「利他愛」という言葉である。
ここには、
「利他愛こそ最高の実践徳目であり、“霊的真理”の中心なのである」
と書かれているが、それでは、この世界に人間を含め、一部の植物を除いて、他の生命の犠牲なしに、この世界=現世に生きることができる生命というのは、どれほど存在するのか。
人間が生きるためには、食料として栄養を摂取しなければならない。そして、その食料というのは、動物にしろ、植物にしろ、すべてが生命である。仮に、すべての生命に「利他愛」を発揮し、動物も植物も摂取せずに生きろと言われたら、生命など即、成り立たないだろう。それとも、この「利他愛」とは、その「他」の意味するところが、人間に限定されるのだろうか。しかし、人間でさえも、自分が食べ物を食べず、それをすべて他人に分け与えていれば、生きることはできない。つまり、生きようと思えば、たちどころに、この「利他愛」の「他」というものが限定されてしまう。それでも、
「利他愛こそ最高の実践徳目であり、“霊的真理”の中心なのである」
というのであれば、それは実現不可能なハードルを人間の前に作り、そこに罪悪感を抱かせるだけの、どこかの宗教の贖罪意識と何ら変わりがないではないか。
僕には、ここで語られている真理というものが、キリスト教の陳腐な焼き直しにしか見えない。そして、僕は、その間違いの根本原因を、「霊的真理」というものに「善悪」の価値基準を取り入れたことにあると考える。
仮に、これまでの霊言や霊界通信といったものに、ほんの僅かな真実が含まれているとするなら、そこから「善悪」の価値基準を抜き去らなければ、正しい姿は見えないのではないか。もし、それを取り去ったら、スピリチュアリズムに何も残らないのだとしたら、これはキリスト教異端派の幻想と考えるしかない。考察は、そこから始まると思うのだが。
「スピリチュアリズム入門」の第二部に目を通した。ここで、まず最初に、僕をガッカリさせたのは、
「地上だけの肉体しか持たない動物とは異なり、人間だけが永遠の霊体を持っているという驚くべき事実」
という言葉だ。
まず、仮に人間だけが「永遠の霊体」を持っているとしたら、一体、いつから、持っているのだろうか。人間は猿から進化をした存在であり、そこから遥か昔、地球誕生の頃まで遡れば、人間の始まりは原生動物である。この記述で言うなら、猿から人間に進化した途端に、「人間だけが」「永遠の霊体」を手に入れたと言うことか。ならば、人間といっても、4、500年前のアウストラロピテクスに始まる猿人の時代には、「永遠の霊体」を手にしていたのか。それとも150万年前の原人の時代になって、それを手にしたのか。それとも2、30万年前の旧人の時代か、それとも1、2万年前の新人と呼ばれる、今の人間の直接の先祖が現れてからなのか。
まさか、神の手によって、アダムとイブという人類がいきなり誕生したという神話をベースにして、
「地上だけの肉体しか持たない動物とは異なり、人間だけが永遠の霊体を持っているという驚くべき事実」
という言葉が書かれているとは思いたくはないが、この言葉の空しさは、何だろう。
そして、ここには、そうした「永遠の霊体」を持つという人間が目指すものとして、「利他愛」というものが説かれ、
「神が人類に対して抱く思いは、まさしくこの“親の愛”――自分のことより相手のことを先に心配する愛――自分より先に相手に幸せになってもらいたいと思う愛なのである。“完全な無償の愛、利他的愛”が神の愛の本質である」
などと書かれているが、これがまた、空しい言葉であることは、NHKテレビの動物番組を見れば、一目瞭然だ。この地球上で、何の見返りもない"親の愛”、“完全な無償の愛、利他的愛”を実践し続けているのは、人間ではない、たくさんの動物たちである。彼らの"親の愛”は、種族によって、その手法は異なるにしろ、知識ではない、本能で、愛を実践し、命をつないでいる。その事実を前にして、
「地上だけの肉体しか持たない動物とは異なり、人間だけが永遠の霊体を持っているという驚くべき事実」
などと説くことに、何の価値があるだろう。
そして、それ以上に空しいのは、他でもない「利他愛」という言葉である。
ここには、
「利他愛こそ最高の実践徳目であり、“霊的真理”の中心なのである」
と書かれているが、それでは、この世界に人間を含め、一部の植物を除いて、他の生命の犠牲なしに、この世界=現世に生きることができる生命というのは、どれほど存在するのか。
人間が生きるためには、食料として栄養を摂取しなければならない。そして、その食料というのは、動物にしろ、植物にしろ、すべてが生命である。仮に、すべての生命に「利他愛」を発揮し、動物も植物も摂取せずに生きろと言われたら、生命など即、成り立たないだろう。それとも、この「利他愛」とは、その「他」の意味するところが、人間に限定されるのだろうか。しかし、人間でさえも、自分が食べ物を食べず、それをすべて他人に分け与えていれば、生きることはできない。つまり、生きようと思えば、たちどころに、この「利他愛」の「他」というものが限定されてしまう。それでも、
「利他愛こそ最高の実践徳目であり、“霊的真理”の中心なのである」
というのであれば、それは実現不可能なハードルを人間の前に作り、そこに罪悪感を抱かせるだけの、どこかの宗教の贖罪意識と何ら変わりがないではないか。
僕には、ここで語られている真理というものが、キリスト教の陳腐な焼き直しにしか見えない。そして、僕は、その間違いの根本原因を、「霊的真理」というものに「善悪」の価値基準を取り入れたことにあると考える。
仮に、これまでの霊言や霊界通信といったものに、ほんの僅かな真実が含まれているとするなら、そこから「善悪」の価値基準を抜き去らなければ、正しい姿は見えないのではないか。もし、それを取り去ったら、スピリチュアリズムに何も残らないのだとしたら、これはキリスト教異端派の幻想と考えるしかない。考察は、そこから始まると思うのだが。
