(8)意志について
(8)意志について
本文
[選択の基準]
[祈 り]
[上陸者の祈り]
[祈りの科学]
[意志の開発]
・上陸候補生は、どいつも劣等生ばかりなのだから、その中から優れた者を選び出したところで高(たか)が知れている。上陸を果たせば、それがどんなチンケな奴でも、交尾式生殖を身に付けて、一気に海の連中に追い付きそれを追い越して行くに決まっているのである。だから、神様は、上陸者が、候補生の中の誰になろうと一向に構わなかったのである。しかし、神様である以上、嫌でもその中から、ただ一対の雌雄だけを選び出さなければならなかった。一体このとき神様は、どういう基準で、その一対をお選びになったかである。
・考えて見れば、人間社会で行なわれている多くの人事が、複数の価値的差のない候補者の中から、ただ一人だけが選定されるというような具合で決定している。我々は、それを通常、偶然とか運とかと呼んで、敢えて気にせずに過ごそうとしている。しかし、現実の上で確定ということが起きている以上、やはりそのときに、神様の選択的御決断が有ったことは間違いないのである。
・魚が陸上動物になるためには《空気呼吸》《手足による歩行》《皮膚等の乾燥防止》等々、かなり数多くの特性を身につける必要があった。そうした特性は、突然変異によって獲得される。ところで、それ等の陸棲となるのに必要な特性は、完全に水に適応している魚達にとっては、むしろ不利な資質である。だから、魚類のうちのどれか一尾がそうした突然変異を受けたとしても、それは劣変になり、その変異遺伝子は、すぐ淘汰されて消滅してしまうだろう(遺伝子淘汰論)。だが、苦しさを堪(こら)えて、陸上にいる時間を引き伸ばしていた連中にとっては、そうした突然変異も有利な変異になる。だから、そうした連中の場合は、その遺伝子は、種全体に広がって行ったに違いない。
・或ることにポジティブな突然変異を、一つの個体が重ねて二つ受ける確立は、天文学的数字(10の12乗分の1)になって、普通では、その様なことは絶対に起こり得ない計算になる。だから、複数の新しい特性を身に付けるのには、最初の突然変異で誰かが獲得した遺伝子が、多数の者に普及して、その多数の中の何れか一匹が、次の突然変異を受ける、というようなことが繰り返される必要があるのである。しかも、新しい環境にポジティブな遺伝子は、元の環境では、殆どネガティブなので、通常はそれが普及するようなことは起こらない。それが普及するには、ここに述べた、フロンティア精神のようなものが必要なのである。即ち、或ることにポジティブな突然変異は、それを願って祈る者だけには重ねて起こってくれるのである。現代の科学理論では、確立統計的な偶然の産物でしかない突然変異も、実は「求めよされば与えられん」という性質のものだったのである。
・祈りというのは求める意志である。即ち、神様は、生物の進化では、ポテンシャルを求める意志を持った動物を作り出そうとしておられる分けでもある。
神様が望みを叶えたと、ここでは書かれているが、それが突然変異だとするなら、それが叶えられたのは、祈った本人ではない。魚が陸上動物になるために必要な《空気呼吸》《手足による歩行》《皮膚等の乾燥防止》等々、それらはすべて突然変異によって現れたものだ。苦しさを堪(こら)えて、陸上にいる時間を引き伸ばしていた連中そのものが、祈りによって、その特性を身に付けたのではなく、その連中の子孫にそれは実現されたのである。これは、一体、どういうことを意味しているのか。
1つには、生まれた来た本人は、別に特性がほしいと祈ってはいない。何故なら、親から子へと通常であれば意志は継続しているわけではない。突然変異は、人間における教育のように生まれた後に、子供に継承させるようなものではない。
そして、もう1つ。その親と言っても、この時代の親は、魚である。この時代の魚に、子孫に未来を託すると言った意志を持つことが、果たして考えられるのか、という問題である。
安達先生は、ここで「意志の開発」と書かれているが、実は、その意志の主体となる存在が、ここに書かれているだけでは見つからない、というのが正直なところだ。ここで敢えて意志の主体を考えるなら、当時、海から陸上の近くへと追いやられた、魚の中でも力のない種族全体ということである。種族に1つの意志があると考え、それが、《空気呼吸》《手足による歩行》《皮膚等の乾燥防止》等々の試行錯誤を行った後に得られたのが、陸上での生活ではないのか。
ここにも、あるのは全知全能の神ではなく、試行錯誤を行う神である。神様が「祈る」者に、「求めよされば与えられん」と望みを叶えた訳ではない。あるのは、苦しむ魚たちの意志が生み出した創意工夫である。そして、それが個々の魚ではなく、種族として受け継がれているということに、僕は「継続する意志」というものの存在を考えてしまう。神は全知全能ではなく、等身大の神なのではないか。それが僕の推論だ。
第1章第2節あらまし
本文
[選択の基準]
[祈 り]
[上陸者の祈り]
[祈りの科学]
[意志の開発]
・上陸候補生は、どいつも劣等生ばかりなのだから、その中から優れた者を選び出したところで高(たか)が知れている。上陸を果たせば、それがどんなチンケな奴でも、交尾式生殖を身に付けて、一気に海の連中に追い付きそれを追い越して行くに決まっているのである。だから、神様は、上陸者が、候補生の中の誰になろうと一向に構わなかったのである。しかし、神様である以上、嫌でもその中から、ただ一対の雌雄だけを選び出さなければならなかった。一体このとき神様は、どういう基準で、その一対をお選びになったかである。
・考えて見れば、人間社会で行なわれている多くの人事が、複数の価値的差のない候補者の中から、ただ一人だけが選定されるというような具合で決定している。我々は、それを通常、偶然とか運とかと呼んで、敢えて気にせずに過ごそうとしている。しかし、現実の上で確定ということが起きている以上、やはりそのときに、神様の選択的御決断が有ったことは間違いないのである。
・魚が陸上動物になるためには《空気呼吸》《手足による歩行》《皮膚等の乾燥防止》等々、かなり数多くの特性を身につける必要があった。そうした特性は、突然変異によって獲得される。ところで、それ等の陸棲となるのに必要な特性は、完全に水に適応している魚達にとっては、むしろ不利な資質である。だから、魚類のうちのどれか一尾がそうした突然変異を受けたとしても、それは劣変になり、その変異遺伝子は、すぐ淘汰されて消滅してしまうだろう(遺伝子淘汰論)。だが、苦しさを堪(こら)えて、陸上にいる時間を引き伸ばしていた連中にとっては、そうした突然変異も有利な変異になる。だから、そうした連中の場合は、その遺伝子は、種全体に広がって行ったに違いない。
・或ることにポジティブな突然変異を、一つの個体が重ねて二つ受ける確立は、天文学的数字(10の12乗分の1)になって、普通では、その様なことは絶対に起こり得ない計算になる。だから、複数の新しい特性を身に付けるのには、最初の突然変異で誰かが獲得した遺伝子が、多数の者に普及して、その多数の中の何れか一匹が、次の突然変異を受ける、というようなことが繰り返される必要があるのである。しかも、新しい環境にポジティブな遺伝子は、元の環境では、殆どネガティブなので、通常はそれが普及するようなことは起こらない。それが普及するには、ここに述べた、フロンティア精神のようなものが必要なのである。即ち、或ることにポジティブな突然変異は、それを願って祈る者だけには重ねて起こってくれるのである。現代の科学理論では、確立統計的な偶然の産物でしかない突然変異も、実は「求めよされば与えられん」という性質のものだったのである。
・祈りというのは求める意志である。即ち、神様は、生物の進化では、ポテンシャルを求める意志を持った動物を作り出そうとしておられる分けでもある。
神様が望みを叶えたと、ここでは書かれているが、それが突然変異だとするなら、それが叶えられたのは、祈った本人ではない。魚が陸上動物になるために必要な《空気呼吸》《手足による歩行》《皮膚等の乾燥防止》等々、それらはすべて突然変異によって現れたものだ。苦しさを堪(こら)えて、陸上にいる時間を引き伸ばしていた連中そのものが、祈りによって、その特性を身に付けたのではなく、その連中の子孫にそれは実現されたのである。これは、一体、どういうことを意味しているのか。
1つには、生まれた来た本人は、別に特性がほしいと祈ってはいない。何故なら、親から子へと通常であれば意志は継続しているわけではない。突然変異は、人間における教育のように生まれた後に、子供に継承させるようなものではない。
そして、もう1つ。その親と言っても、この時代の親は、魚である。この時代の魚に、子孫に未来を託すると言った意志を持つことが、果たして考えられるのか、という問題である。
安達先生は、ここで「意志の開発」と書かれているが、実は、その意志の主体となる存在が、ここに書かれているだけでは見つからない、というのが正直なところだ。ここで敢えて意志の主体を考えるなら、当時、海から陸上の近くへと追いやられた、魚の中でも力のない種族全体ということである。種族に1つの意志があると考え、それが、《空気呼吸》《手足による歩行》《皮膚等の乾燥防止》等々の試行錯誤を行った後に得られたのが、陸上での生活ではないのか。
ここにも、あるのは全知全能の神ではなく、試行錯誤を行う神である。神様が「祈る」者に、「求めよされば与えられん」と望みを叶えた訳ではない。あるのは、苦しむ魚たちの意志が生み出した創意工夫である。そして、それが個々の魚ではなく、種族として受け継がれているということに、僕は「継続する意志」というものの存在を考えてしまう。神は全知全能ではなく、等身大の神なのではないか。それが僕の推論だ。
第1章第2節あらまし
